第21回 「ことばじゃない」

 前回の投稿から早半年が過ぎ、季節は移ろい、「冬こそトモエ」の入口にさしかかっているような今日この頃。気ままな投稿にも関わらず、読んでくださっている皆さんには大変恐縮です。

 

 最近、園児の弟妹たちが、三歳の誕生日を迎え、途中入園しています。(これを「満三歳児入園」と言いますが、弟妹の全員が入園するわけではなく、あくまでもご家庭の考えや状況に寄り添っています)彼らは「新入園児」と言えど、何せ、生まれて数か月の頃からお母さんや兄姉といっしょにトモエに通っているので、もともとじゅうぶんにトモエの一員(いまどきの言葉で言うと、イツメン!)なわけです。その育ちや性格をよく知っている私たちとしては、彼らの入園は、トモエでも指折りの醍醐味と言っても過言ではないほどです。そして何より、本人たちにとっても「満を持して」の入園なのかもしれません。今回は、そんな弟妹たちのお話です。

 

 夏に三歳児入園したA君は、お母さんと上のきょうだいたちと、お腹の中から毎日トモエに通っています。末っ子ならではで、愛嬌たっぷりで表情豊か、周りの人たちから可愛がられています。最近になって言葉がいっぺんに出てきたというA君ですが、お母さんは言葉の出現の時期について、これまで少し心配していたようです。(女の子はおしゃべりと聞きますので、わりと男の子アルアルですよね)でも私は、あまり心配ないような気がしていました。

 

 なぜならトモエでは、人間関係において、そもそも「言葉だけに頼らない」という素地が存在しているからだと思います。赤ちゃんの時から、いろいろな人に抱っこされてかわいいねと目と肌で伝えられ、やがて広いトモエの中をよちよち歩く頃になると、あらら大丈夫?と温かいまなざしで見守られながら大きくなっていく彼ら。やがて自分の好きな人を見つけ、自分の居場所としてトモエを認識していく。そんなふうに人生の初期に、ありのままを受け入れられるという悦びを体感し、相手の目に映る自分を感じながら(客観)、自分のペースで過ごしていく(主観)。

 

 そんな毎日の中で、言葉の元になるとも言うべきさまざまな感情や感覚が、自然に育てられているのでしょう。言うならば、言葉が存在しない時期を、「言葉だけに頼らない」世界で過ごすことで、やがて、感情と結びいたホンモノの言葉が出てきているようにさえ思えるのです。

 

 それでも、中には言葉が出づらい子どももいると思います。わが娘がそうでした。娘はダウン症で現在23歳、生まれてすぐイツメン組の、トモエの卒園生です。未だにはっきりとした発語はありませんが、ダウン症の人が皆そうだというわけではありません。私は、娘はきっと、言葉が苦手なタイプの人なんだ、と理解しています。誰にでも得手不得手はあります。娘は体幹が強く球技が得意です。事の重要さをかんがみて、体幹の強さは言葉の出現の代わりにはなり得ないかもしれませんが、それでいいと思えます。人間はデコボコで、一律な姿に育つとは到底思えないので。言葉が出ていないのは、出ていることに比べて少し不便ですが、それほど不幸でもありません。

 

 トモエの園長は、「言葉は、言いたいことの二割くらいしか伝えられないよ」と言います。相手が発した言葉の、その後ろにあるものも想像しながら、ということかと思います。相手に対して「謙虚に聴く」ことが、「言葉だけに頼らない世界」を生きてこなかった私たち大人にとって、時に必要なことかもしれないと私は思っています。そして、「子どもから学ぶ」とはこういうことなのかな、と。

 

 前述のA君は、「やだ!やめて!」と、つかみ合いのケンカをした直後、「いいよ~」とニッコリ。トモエイツメン歴3年のA君、一見コロコロ変わる感情は、A君のあふれる感性であって、「言葉だけに頼らない世界」で磨かれた感覚そのもの。言葉は後から付いてきているだけのような感じがしました。

 

 今は亡きトモエの先代の教頭は、「子どもは心でつかむ」とよく言っていました。現在の教頭を筆頭にスタッフは、毎日、思いっきり体と心を使って子どもと遊びます。「ことばじゃない」トモエという世界線は、今までもこれからも、脈々と継がれていきます。