新聞紙の海

11月20日(月)壁や移動棚で囲った中に、新聞紙を一枚ずつバラバラにして入れて、狭いですが海(笑)を作りました。子どもたちは海中に潜ってみたり水を跳ね上げたりして大喜び。

こうした遊びはルールがあるわけではないので、個々が、埋まってみたり紙を投げ上げてみたり、近くの人にかけてみたりというシンプルな行為が多くなります。そうしたシンプルさに浸っている彼らを見ていると、そこにあるのは楽しさだけではないのだと感じます。

そこで私も入ってみると、なんだか不思議な感覚になりました。子どもたちの動きで波打ち舞い上がる新聞紙は、彼らによって命が吹き込まれた、まさに生きている波であり水しぶきであることがわかります。そう思うと、子どもたちの動きはまさに命を吹き込む行為に見えてきます。

彼らが動きを止めると、波は静まり水しぶきは消えてしまいます。そのままじっとしていると、目の前にあるのはただの新聞紙だとだんだんと思わされてきます。それが嫌でどんどんと命を吹き込みたくなります。

静まり返って動きを止めた新聞紙の山からは、号令とともに爆発して魚の群れが一斉に飛び出してきます。そのとき止まっている命の吹込みは、次の爆発のためのタメのようです。あえて静まることで、次の命の吹込みで大きな効果を生むことを画策しています。

人間は、自分の強い思いで絵筆やキャンバスに、楽器に、ボールに・・・、命を吹き込み芸術やスポーツを創りあげてきました。芸術やスポーツとは何でしょう。それは美の追求であったり力や技の追求ですが、その本質は人間はどう生きるべきかという人間の生き方の追求にあるのだと思います。

そんなことを考えて新聞の海に浸っていると、子どもたちが新聞紙に命を吹き込むことは、まさに芸術やスポーツが命を吹き込まれて成立することと同じく、人間はどう生きるべきかを求める行為に見えてきます。舞い上がる新聞紙は、彼らの生きようとするエネルギーのほとばしりに見えてきます。子どもたちの生きる力の強さに圧倒されます。

帰る時間が近づいて新聞紙の海の遊びが終わると、みんなでゴミ袋にパンパンになるまで新聞紙を詰めます。ゴミとなるはずのそれらをかついで帰りのバスに乗り込む何人かの子どもたちの姿が見られます。そう、家に持ち帰るために・・・。