「トモエ」のルーツ
テレビでもおなじみのユニセフ親善大使でもある黒柳徹子さんの著書『窓際のトットちゃん』(講談社1981年)で、広く世に知られるようになった「トモエ学園」から名を付けさせてもらいました。
「トモエ学園」は、小林宗作氏が1937年に創立した私立自由が丘小学校と幼稚園です。大正デモクラシー期の「子ども中心」の考え方をすすめた教育の実践でした。1945年の空襲により、「トモエ学園」は炎上焼失してしまいました。(詳細は佐野和彦 著「小林宗作抄伝 : トットちゃんの先生 金子巴氏の話を中心に」話の特集1985年)
『窓際のトットちゃん』の本の中に、小林宗作氏の 教育方針について載っています。
「どんな子も、生まれたときには、いい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、回りの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それを伸ばしていき、個性のある人間にしていこう」(p268)
「子どもを先生の計画に、はめるな。自然の中に放り出しておけ。先生の計画より子どもの夢のほうが、ずっと大きい」(p280)
また、『小林宗作抄伝』の中に、小林宗作氏の幼児教育に対する考え方がかかれています。
「・・・幼稚園の教育は必要である。最も必要である。人間生活の一生の中で、人間教育の凡ての時代の中でこれ程重大な問題はない。 ~略(幼稚園選びの親の責任について述べる)~ それが親としてのつくすべき最大急務であり最大義務である。子どもは最もよい教育を受ける権利を生得しているのである・・・」
「札幌トモエ幼稚園」の誕生
それまでの20年の実践が、まさに小林氏の考えに共通していることを感じた園長の木村 仁は、新しく創る環境には「トモエ」の名をつけようと決心しました。
それはまた、「先人の残してくれた大きな遺産を引き継ぎ、発展させよう」という決心でもありました。 そして木村は、『窓際のトットちゃん』を読んで「個性的な徹子さんへ最も強い影響を与えたであろう母親」である黒柳 朝さんに興味を持ち、当時の鎌倉の自宅を訪問し、じかにお話を伺いました。その感想は、「徹子さんのように個性的だ!」というものでした。 幼児期の子どもにとって、母親の存在は絶大です。その影響力に勝るものはありません。そのことはそれまでの実践で確信を得ていました。
自然の必要性
また子ども時代に自然の中で育った木村は、「自然に勝る教師なし」という諺の重要性を身をもって体験していました。当然、それまでの実践でも自然との触れ合いを教育の重要な柱としていました。
「大自然の中に、親子が集える環境を創ろう!」「トモエ学園を現代によみがえらせ、発展させる道はこれしかない!」・・・、トモエ幼稚園の夢はどんどん膨らんでいきました。
そして、その夢をこの札幌の地から全国に、いや世界に発信していくために、あえて「札幌トモエ幼稚園」としたのです。
幼稚園という名はついているけれど・・・
1988年4月、道より自然体験型特認幼稚園として認可され、札幌南区の北の沢のこの地に学校法人創造の森学園「札幌トモエ幼稚園」としてスタートしました。(実は、その前の2年間は、無認可で行っていました。市街化調整区域のため建物が建てられないので、園舎はなんと、2棟の巨大なビニールハウスだったのです)
しかし、幼稚園という名前はついていても、多くの人が抱くイメージからはかけ離れたものです。園舎には教室がないし(オープンスペース)、いつでも親はもちろん園児のきょうだいでも祖父母でも、誰でも参加できるし、子どもたちの自発性を大切にするので笛や号令で動かさない・・・等々、その理由はたくさんあります。
ですから、開園当初からここに集う人たちは「幼稚園」をつけずに、ただ「トモエ」と呼んでいます。それは、理念や考え方を含め、ここに実現されている「地域社会的な場」を指す呼び名と言えるかもしれません。