2024年05月号

『トモエの生活環境は、大人が人間の不思議と神秘を生涯学び続けるところ・・・』

『大人が互いに理解を深めようとしている生活は、(親“大人”の背を見て子は育つ)

何事にも例えがたい、子どもたちへの最大の遺産となると確信しています』

 

園長は、人間の不思議と神秘は、胎児、乳幼児から学び続けています。

乳幼児との関わりによって、人間が本来持っている人間の想像を超えた本質である、自分に素直に向き合い素直に表現することで、自分を知り続けています。

乳幼児は、本能的に自分と向き合っています。大人の目には見えづらい世界ですね。

だから、乳幼児は、本能的に自分と会話しています。“自分が好き”など、表現してます。

良心も本能的に使いこなしているように、感じています。神に一番近い存在ですね。

愛する人への観察。どのような心で自分を見ているのか、ありのままを受け入れています。園長は、乳幼児の不思議と神秘の世界を現在も体験しています。

すべての大人も、胎児乳幼児期を体験して現在があるのですよね。

 

乳幼児は、大人の目をじ~と長く見ています。

怖さを感じます。心の奥まで見ているようです。

園長は、神様より乳幼児は、怖い存在です。聖書に、幼子を受け入れる者は、神を受け入れたのと同じであるとあるからです。

園長は、乳幼児と親しく関わらせていただいて、人間の神秘と不思議、人間の素晴らしさ、生涯無限の可能性、豊かな感性が果てしなく広がっていることを、現在も感じ続けています。

乳幼児とその両親に感謝しています。生きる大きなエネルギーとなっています。そのエネルギーで、人間の主体は、魂と良心と心のネットワークでどのように生涯育てられていくのかを考察しまとめてみたいと思っています。主体とは、個の存在の尊厳そのもの。

 

乳幼児期は、人生の土台を形成している最も大切な時代です。認識を高めながらトモエの生活環境を多くの人と創造し続けているのです。

 

乳幼児の素直さから、園長も素直に表現することの喜びを乳幼児から今もたくさん与えられ、感謝しながらすてきな人たちと日々楽しく過ごさせていただいています。

 

乳幼児は、愛する人達が素直に表現してくれることで、より理解が深まり内面から湧き出る悦びを積み重ねて、愛着が脳全体に記憶されているようです。目が輝いて生き生きと毎日生活していますよね。

大人の目が輝いて生活しているのかを乳幼児は、いつも見ていますよね。

子どもたちの信頼に答えられる、大人になりたいと日々思いながら、生活しているのがスタッフと園長です・・・失礼・・・親とその家族も一緒に歩んでいますよね。それが、

トモエのコミニティーですよね。

トモエのコミニティーによる、コミニケーション能力の本能が育つ基礎的生活環境を、

報告書として製作中です。それは、トモエの実践が学問的にも裏付けられるためのものです。ご期待ください。自分が体験してきたことに期待をかけないでどうする・・・

 

 

2005・06年度 文部科学省 人権教育開発事業 報告書

『人間の豊かな感性を養い、人間の尊厳を確立する基礎的人権教育の創造』より

 

事例(1) スタッフ研修会は「人間とは何か」を学び合う

 最も基本となるのは、トモエのスタッフ自らが人間を探究し自己認識を高めることである。そのための研修会を、年に二度、三日間づつ時間を持つ。そこでは様々な専門分野を通して「人間」について学び合う。

 スタッフの研修で学び合うべき事項は、実に数多く幅広い。精神医学・動物行動学・脳生理学・青少年犯罪学・家族関係学など、人間に関するすべての分野が研究の対象となる。

 人間存在は不思議で神秘的であり、一生涯をかけて探究していく必要がある。トモエのスタッフ研修では、結論は与えられない。それぞれが自ら感じ、考え続ける。自分自身について、子どもたちや親たちとの関係について、などを具体的な実践の中で探究していくには、たいへん長い時間が必要である。

 次にあげる文章は、研修で学んだことについての、あるスタッフ(米澤正人)によるレポートである。隔週刊の「トモエだより」に掲載し、研修での学びを父母と分かち合っている。

 

 “22歳までの私は、私であって私ではなかった。母を喜ばせる奴隷だった。その姿が「良い子」だった。…私は自分がしたいと思ったことをするよりも前に、それが母の決めたルールに合っているかどうかを判断してから行動していた。私の行動の99%は母に支配されていた。…私は、母の笑顔が見たかったのだ。ただそれだけだった。親から自分の存在を悦んでほしい、強烈にそう思っていた。その弱みのせいで、私はすっかり母の奴隷になるように洗脳されてしまったのだ。”

 これは、すでに結婚し2人の子を持つ25歳になる女性が、カウンセリングによって自己分析ができて母親からの呪縛から解放されつつあるときに書いた手記の一部です。今年の冬休みのスタッフの勉強会の1日は、香川大学教授の岩月謙司氏の著書『家族のなかの孤独-対人関係のメカニズム-』を題材に進められました。この手記は本の第1章にあたり、7章からなる本書の導入部です。しかし、これは重たい導入部です。読み終え、涙があふれ止まりませんでした。

 旧来、家族や親子関係について考えるとき、それは温かで子どもの成長にとってのプラス面が強調される側面がありましたが、そこにはそれこそが人間性を育む核であるという認識から、マイナスの側面を見ようとすることをタブー視する風潮があったようです。しかし、近年、精神科医の斎藤学氏(『アダルトチルドレンと家族』学陽書房など)らにより、その闇の部分に光が当てられるようになりました。家族、特に親の子どもへのかかわりが子どもの心の病の原因となっていることがあるということを、たくさんの症例研究から明らかにしています。親子関係には、悲劇が生じる可能性があるということです。

 手記の女性の母親は元キャリアウーマンで頭が良く、いろいろな才能を持っていたけれど、病弱な夫と結婚して、その才能のすべてを家庭につぎ込んだと書かれています。自己犠牲的な態度で夫や子どもの世話をして、社会から認められないくやしさをこぼしていました。「でも、子どもが優秀だから鼻が高いわ。私は幸せな母親だわ」と、それが子どもを奴隷化させることだと気づかずに言っていたようです。また、この母親は一見子どもの幸せを願っているようで、そうではないと記されています。子どもが一生懸命自分の力でピアノを練習し達成感に浸ろうとしているとき、また真の友人関係を築こうとしているときに、気に入らないと邪魔してしまうのです。母の嫉妬と表現されています。本人にその意識はないので、たちが悪いといえます。そうしてこの女性はいよいよ母親の奴隷と化していくわけです。また、ピアノの練習に意欲を失ったとき、発表会のためにもと母親が父親に練習をするように頼んだけれども、「イヤ!」「練習しろ」「イヤだ!」の押し問答の末、殴られてしまいます。女の子が最初に恋をするはずの父をも失ったのだ、と記されています。

 その後この女性は、大学生の頃に真面目に大学に通うフリをしてボーイフレンドのアパートに通い、愛のないセックスにおぼれ、また寂しさからテレクラもやったそうです。そして自分についたウソで八方ふさがりになり、彼のアパートの風呂場で手首を切ったり鎮静剤を飲んだりと自殺未遂を起こします。その後、彼女は母の喜びそうな医師と結婚し子どもをもうけますが、また自殺を企てます。その後、彼女は岩月氏のカウンセリングを受け、徐々に回復していくのですが、その過程でも、人間不信に陥っている彼女は岩月氏を試そうと致死量の鎮痛薬を飲んで研究室を訪れ、もうろうとした中で、動ぜず「生きたかったら吐け」と言う岩月氏に救われていくのです。

 悲劇です。親との関係で子どもがこんなにも人間性をずたずたにされ、死をもってしか自分を取り戻すことができなくなるなんて。

 この手記には、幼児期の思い出は4歳のときに幼稚園で覚えた汚い言葉を使った時のことだけしか書かれていません。彼女の母は怒鳴ったりぶったりはせず、恐ろしい顔でにらみつけるだけですが、それはとても怖く、見捨てられるのではないかという恐怖心を喚起させるものだったということです。その後の彼女の人生は、ずっとその不機嫌な顔に支配されるようになったといいます。

 幼児期の記憶というのは、特に強く印象に残ったもの以外はあいまいで、あまり覚えていないものです。しかし、幼児期におけるこの女性と母親の関係は、この出来事に象徴されるものだと想像できます。それは先にあげた手記の一部にも書かれている母子関係が、すでにこの時期に表れているからです。この女性は4歳から、いやたぶんもっと前から母親の顔色をうかがいながら生活していたのでしょう。

 幼児期までの子どもはとても感受性が強く、特に自分と一体である母親の影響を強く受けます。母親が自分をどのように見ているかを敏感に察知し、それを自己のなかに組み込んでいくといわれます。イギリスのウィニコットという小児科医で小児精神科医は、「お母さんを見つめる時、赤ん坊はふたつのものを見ている。お母さんの瞳と自分を見つめているお母さんとを」と述べています。赤ん坊は、お母さんが自分をどのように感じているか、見ているかをしっかりと感じているということです。この手記の女性は、赤ん坊のときから母親の瞳に自分が肯定的に写っているか否かを読み取っていたでしょう。4歳の時の経験は、それがその後の彼女の人生に決定的に作用するに十分な布石が打たれていたうえでのことと解釈できると思います。

 この手記には詳しく書かれていませんが、彼女が乳幼児期から母親の影響を強く受けていたという当然の事実を思うとき、何か背筋が寒くなる思いがします。

 しかし、ことほどさように乳幼児期の母子関係の重要性を強調すればするほど、母親には責任が重くのしかかってしまいます。確かに責任は大きいとしても、母親とて完全ではありません。欠点もある生身の人間です。特に子育てというのは、子どもと真正面から向き合わざるをえないために、内面が表れやすいものです。いい面も出ますが、悪い面も出ます。いい環境に置かれなければ、悪い面が循環して出てしまうでしょう。

 その点、昔の子育て環境は、母親の周りには年寄りや同じく子育て中の母親、先輩の母親などがいて、不十分さを補ってくれたり助けてくれたりということがあり、悪循環に陥らないですんだと思います。昔の母親だって、孤立した子育て環境であれば、今の母親のように苦労を背負わざるを得なかったと思います。

 そうしたことを考えると、手記の女性の母親には、彼女の不十分さを補い、助けてくれる人がいなかったのだと想像できます。また、彼女の娘への対応は彼女自身が育ちの過程で身に付けたもので、それは彼女自身が癒されることが必要な質のものだと思います。だれも彼女を癒してあげられなかったのでしょう。全く彼女だけの問題ではないのです。

 もう一つ、この母親だけでなく、この手記の女性にも、彼女の窮状を理解して手をさしのべてくれる人がいなかったのでしょう。オーストリアの精神分析医のアリス・ミラーは、親からの冷たく心ない仕打ちを受けた子どもでも、たった一人でいいからその子に寄り添い温かく接してくれる人がいれば、その子は救われるといいます。そうした人を「事情をわきまえた証人」と言います。

 ついついこんなことを考えてしまいます。もし、この親子がトモエで過ごすことができていればと。トモエは親のための環境です。特に母親が自分を見つめ自己を修正し成長していくための環境です。そのために必要な癒しや支えが得られる環境です。(その過程では、相手を傷つけたり傷つけられたり、そのことに気づくこともありますが、気づかないこともあります。)あの母親には誰かが寄り添い癒してあげることができたかもしれません。また、子どものほうにも「事情をわきまえた証人」が現れて、支えてあげることができたでしょう。そうすれば悲劇は防げたと思います。そうした意味では、トモエは悲劇を予防する社会的機能を持っているといえます。

 そしてトモエはなんといっても、乳幼児を通して人間とは何かを学ぶところです。現代社会では、乳幼児は人間として不完全とされ、人格もまともに尊重されない存在です。しかし、人間の核の部分、清らかさや美しさ、不思議さや神秘さを持った存在です。前日の勉強会では幼児教育の父といわれるフレーベルについて学びましたが、彼は幼児の活動は純粋な精神、神的なものが表れると考えていたといいます。大人にとっては、彼らを理解するのは簡単ではありません。目にはフィルターが幾重にもかかり、脳にはバイアスがかかって、彼らのありのままをとらえることが難しいのです。それを可能にするためには、たくさんの子どもと共に過ごし、いろんな場面で見て触れることが必要です。そのことはトモエでたくさんの方が経験していることだと思います。

 またフレーベルは母親の教育についても述べていますが、神的なものが宿る子どもを伸ばすのは母親の仕事だといっています。母親が人間の最初の教師であり、母としての自覚を促すためには母親の教育が必要だと考えていたのです。(晩年にその考えに至り、自らは実践できませんでした。)人間らしい教育の場である家庭の中心に母親を据えていたのです。トモエの考え方と同じだと思いませんか。いや、幼児教育の父が実践できなかったことをトモエでは実践しているのです。

 トモエは子どもから具体的に人間とは何かを学び、互いに支え合って成長を目指す母親をうんでいます。彼女は家庭の中心にいて我が子を守り育て、父親を刺激しています。また、母親同士のつながりから家族同士のつながりも生まれます。実際に、そのつながりがずっと続いている卒園家族もあります。

 アッチでワイワイ、こっちでガヤガヤ、みんなであばれて汗を流したり、お祭りがあったり、協同で何かを作ったり、歌ったり踊ったり…。地域社会の崩壊と言われて久しいですが、トモエはまさに人間が育つための共同体的な地域社会なのだと思います。フレーベルは天国で喜んでいるはずです。

 最後に、トモエが一人一人にとってどんなところか、園長がそのポイントを5つあげていましたので伝えましょう。(1)自由の本質から、自分の本音を出し始め、自分の本当の姿を見ることができるようになる。(2)自分の素晴らしいところと傷も見えてくる。傷が深いと、傷のほうばかりを見るようになる。(3)心が裸にされる。裸にならざるを得ない状態になる。(4)本当の自分を発見し、今度は本当の自分と闘うようになる。(5)社会共同体として、一緒に闘う雰囲気がつくられる。

 この勉強会を通して、トモエの存在意義を確認することができました。皆さんに、少しですがおすそ分けです。