「リアルな生活」

~コロナ明け2年目のスタートに寄せて~

前回の投稿から数か月が経ってしまい恐縮です。ふたつの季節を越えて、気がつけば初夏が目前ですね。遅ればせながら、2024年度トモエライフもスタートしています。コロナが5類に移行してから二度目の年度初めとなりますが、昨年度の始まりとは少し面持ちが違って、より自然なスロースタートだったように思えます。

ふと考えてみると、コロナの頃が、何だかずっと前の出来事だったような気がしています。過ぎてしまえば、ステイホームやマスク生活がまるごと、あたかもそこだけ切り取られた異次元の時空間だったのでは、とも形容できそうなくらい、遠い昔の世界のように感じるのは私だけでしょうか。不思議な空虚感にかられながらも、皆がそこ(コロナ期)を踏ん張って通過したからこそ、現在が、現実がたくましく存在していることも実感しています。

コロナの最中によく、「コロナ期が終わったら、元の世の中に戻るのではなく、新しい時代に足を踏み入れるのだ」とうたわれていましたが、その通りになったなあと感じています。リモートワークやオンライン会議の普及、学校行事の分散化、TPOに応じてのマスク着用の使い分けなど、コロナ期を経験したことで、利便性や合理性において、社会の変化が加速しました。これらはコロナ期を経て獲得した財産であると言っても過言ではないと思います。人類未踏の混乱期でさえ、人間は何かをつかんで前へ進むことができるのだと思わせてくれました。

これが、コロナの「正の」遺産だとするならば、「負」の方はやはり、人々の心の状態でしょうか。コロナが私たちにもたらしたもののひとつに、「密の怖さ」があると思います。急性期には「密を避けよう」というメッセージを浴び続けましたが、今となってはもう、掲げられてもいないはずの、実体の無いスローガンです。にも関わらず、それは残り香のように身をまとって離れず、いつしか「密≒対面」と姿を変えて、対人関係に微妙に影響しているような気もしています。

いつのまにか、怖いのは「密」という状態ではなく、「対面」、ひいては「人間」そのものにすり替えられてしまったように思います。人と向き合うことや人と肩を並べることに、前よりも抵抗感があり、人に対して何となく警戒心を抱いてしまう、という心の状態変化が生まれてしまったのではないでしょうか。それが、人と人との心の距離間に、影を落としているような気がしています。なので、コミュニケーションの場としても、リアルよりネットの方が心地良いと言われる傾向も自然な流れなのでしょう。

トモエの毎日は、リアルそのものです。日々、大人も子どもも交錯し合い、対人関係は更新され続けています。コロナの期間も、木村園長の計らいで、トモエの自然環境と広い空間を駆使して、なるべく密にならずに、分散しつつも、対面関係を保ちながら生活できる環境を創って過ごすことができました。これは計らずも、リアルを温存することができたとも言えると思います。そのおかげで、トモエでは今も、「密の亡霊」にとりつかれることがありません(笑)。

そんなリアルな毎日は、笑いあり涙あり、時にいさかいありで、凹んだり腹が立ったりすることもあったりと、泥臭く生々しい体験の日々です。スマートでスピーディーなネット上でのコミュニケーションもいいけれど、今必要なのは、こんなリアルな生活なのかもしれません。トモエの森の中で、自然にとけ込み、人と人とが関わり合って過ごすことの意味を今、あらためてかみしめています。知らず知らずに人々の心にしみついてしまった「心の壁」も一蹴してくれそうな気がしています。

さあ今日も一日、どんなリアルが繰り広げられるのでしょうか。トモエの森に日々通ってくる仲間たちは、それだけで十分にリアルです。敬意を込めて。