2023年度0203月号

2024年1月10日に開催された父母とスタッフ合同研修会の資料です

2024年 冬の研修

 「人間の理解。その基礎的在核の考察」

“命、人体、魂、心、良心”のそれぞれの機能と関係性を考察する。

 

・研修による考察は、トモエの生活環境創造の根幹であり人間の尊厳の核をなしている。

 ゆえに、個々の人生で生涯考察が続けられる。

・人間の未知なる世界は、果てしない可能性に満ちた世界が広がっている。

・研修によって、“自分とそれぞれの主体”の神秘性を共感、共有をしたい。

 

*トモ工の生活環境の創造の根幹は、「人間理解・人体、命、魂、心、良心」にある。

 乳幼児期に、素直に表現してもらえる環境から、“人間とは何か”、主体を持った存在の尊厳の意味を体験的に大人は学び続けている現在進行形。

胎乳幼児は、“人間とは何か”の根幹を五感で感じさせていただける存在。機能を持つ存在。

 

*トモエの生活環境の創造は、乳幼児も大人も一人の主体を持った存在である尊厳を、日々確認しながら、成長進化している。

*個々の人生は、現在を歩んで知る。現在は、瞬時過去を残し脳に記憶されている。現在は、瞬時未来を迎えている。人は、過去の体験を振り返りながら思考を続けている。過去と現在を思考していると、未来の未知なる世界や果てしなく続く神秘の世界を、自分の中に感じる。自分自身と向き合い(命と人体と心、魂と良心)生活していると、無限の可能性に満ちた未来の世界を体験できる。

人間は、すばらしい!

 

1月10日(水)

10時 研修の説明

      映像 NHKスペシャル・人体 神秘の巨大ネットワーク 第5集

         “脳”すごいぞ!ひらめきと記憶の正体 (49分)

< ティータイム >

 11時 心などそれぞれの機能の概略を考察。

      人体と命      脳と心      魂と良心      心と良心

< ランチタイム >

 13時 自由討論~14時 <コーヒータイム> 自由討論 15時終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年度「創造の森 9月号」より

みんなで、幸せになろうよ!幸せの原則を求めて!」

幸せは、自分で創造するもの!

幸せは、愛する人と共感すること!

幸せは、自分の中にある不思議と神秘の世界を知り続けることで体験できる!

 

園長は、今も自分の『良心と向き合い対話を続ける人生』を歩んでいます。

人間が持っている神秘の世界と未来の世界を見つめて、楽しみながら生きています。

楽しみながら生きる人になってほしいと願いながら、トモエの生活環境を創造し続けていますよ!『良心との対話がキーポイント』になるようですね。

 

思考のためのポイント

人間が持っている、神秘の世界。

NHKスペシャル『人体』神秘の巨大なネットワーク・トモエの研修で学習してきました。

人間理解のための歩みは、永遠ですね。

日々、知らないことが多く発生しますのでおもしろい!

 

人体そのものが、命!主体は、その人その者の存在を意味しています。主体は、その人独自のもので、人と比較できない存在。人と比較できないのに、比較してしまう自分がいるのですから、悲劇ですよね。

園長の人生で、この悲劇を数多く実体験してきて、今があります。今後も時々、悲劇を味わうでしょうね。その都度、自己存在の『主体』について認識を高め『自分の良心』に素直に応答できる人間になりたいですね。生涯永遠の課題であると自分に言い聞かせて生きています。

『良心との対話』は、幸せの創造の原点でもあると思いますが・・・

 

人間の心の目でも見えづらい、『魂』『心』『良心』の存在は、自分にどのような働きかけをしているのだろうか?

園長は、生涯思考を続けるでしょうね。

年々知らなかったことが、徐々に見えて来るので楽しく、幸せを感じることが多くなりました。過去現在までの喜怒哀楽がベースになっていることで、未来の未知なる世界を楽しみに期待しながら日々を歩んでいます。

 

『人間の良心』について、考察を楽しんでいます。みなさんの思いを聞かせてください!

 

『良心は、いつ発生するの!?』

『良心は、出生後どのように成長し、進化するの!?』

『良心が心身のバランスをとる機能を持っている!?』

『良心が咎める・良心にやましいことがない・良心の問題・良心的に・良心に反する・良心に従う・良心に素直に対応したい』など、多く使われています。

どう思いますか・・・

 

人体・命・主体・魂・心・良心は、『人間の巨大なネットワーク』ではどのような関係性を持っているのでしょうか!資料が少ないので、自分で考察を続けている毎日です。

これらの法則を考察し続けることで、生きる意味や幸せの法則、原則を自分のものにできると思うのですが・・・いかがでしょうか!

 

トモエは、目には見えづらい「神秘巨大ネットワーク」が球体的に養われる生活環境の世界を創造し続けています。「良心」が素敵に育つトモエの環境を創造するために、今後も多くの人と永遠に創造的な世界を歩みます。

 

資料1

園長の現在までの『人間についてのおおまかな略図』

*人間・魂・主体は、個々に分け隔てなく与えられている!?

*『魂』は、生きている証明・存在の証明・命とどのような関係性があるのかな?!

*『心』が知識・感情・意志の総体であれば、五感から与えられた刺激は、脳に記憶されたもの?!快不快の度合いで、心が創られる!?個々の表現は、『心』!?  

『良心』倫理を考察?善悪の判断?感性の判断?快不快の判断?良し悪しの決断?

  良心と心との関係は・・・?!

良心とは、心で考えたことを判断する“機能”をもっている!?

 

 

『良心についての対話をしませんか』

『世界に呼びかけをしたい思いでいっぱいです』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良心について

米澤正人

良心とは何か

 

大辞林~①道徳的に正邪・善悪を判断する意識。(―の呵責を感ずる)

    ②(倫)善悪を判断して善を命じ悪を退ける知情意の統一的意志。

     「孟子」で「人本来の善心」の意。

    (中村正直訳「西国立志編」1871年(明治4年)に英語conscienceの訳語として載る)
                ↑
    サミュエル・スマイルズ「自助伝」(1859年)~序文「天は自ら助くるものを助く」

 

語源・・・「良心論」石川文康(東北学院大学教授)

 ・もともとは日本になかった言葉。英語conscience(コンシエンス)、

独語Gewissen(ゲビッセン)の訳語

 ・直接的にはラテン語conscientia(コンスキエンティア)に由来。

元をたどればギリシャ語のシュネイデーシスに淵源する。(シュン+エイデーシス)

   シュン「(~と)共に」+エイデーシス「知ること」=共に知る・・・日本語の良心とは似ても似つかない

                             

誰と共に知るのか

  ①自分以外の他の人格。単数~外的な他者、複数~世間 = 世間(の他者)と共に知る。

  ②絶対者としての人格 = キリスト教的(ユダヤ教的)な神 = 神と共に知る。

  ③自己自身。内なる人格 = 自己自身と共に知る。

      ①と②(神律的良心)・・・他律的良心   ③・・・自律的良心

 

良心解釈の歴史

 

①世間と共に知る(他律的良心)

*世間=他者との共通理解、共通感覚(コモンセンス)~社会通念や常識等・・・他者の目、世間の目を気にする。「良心はおおむね、五分の一は人間への恐れから、五分の一は魔神への恐れから、五分の一は偏見から、五分の一は虚栄心から、五分の一は習慣から成り立っている」。(ショーペンハウアー18世紀ドイツの哲学者)

 *わが国特有の「恥を知る」

 

②神と共に知る(神律的良心)~ヨーロッパキリスト教2000年の連綿たる歴史が背景にある。

 *「神は良心の証人であり最大の栄光である」(ローマ帝国カトリック教会司教アウグスチヌス「神の国」)

 *ペテロの第1書簡「神の良心によって」

 *「神的判決の感覚」「良心はただ神にのみかかわるもの」(カルバン)

 *「良心とは…ひとり善なるものとしての神、掟を与えるものとしての神…のみが知りうることに関して、人間が共に知ることである」(カール・バルト20世紀の弁証法的神学者)

 

③自己自身と共に知る(自律的良心)

 *「ある神的なダイモニオン(守り神)的なことが私の身に起こるのです。…私にこういうことが起こるのは子どもの頃からのことです。すなわち、ある声が私に聞こえてきて、そのつど私がしようとしていることを私に思いとどまらせるのですが、その声が何かをするように私を励ましたことは一度もありません」(プラトン「ソクラテスの弁明」)

 

 *無知の知…「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託に「身に覚えがない」と戸惑う。何人かの賢者と言われる専門家と対話。彼らは自分が何を知らないかの自覚に欠けているのに知者を自認する。ソクラテスは、自分が何に関してどの程度無知であるかを知っていた=知における誠実さ=「自己自身と共に知る」良心。

 

 *キケロ…良心の咎めを神の罰則とはみなさず、良心の根源を理性と自由に求める(神と共に知る✕)。

「私にとって、私の良心は万人のうわさ以上の意味がある」(世間と共に知る✕)

 「徳にとって良心に勝る劇場はない」生きることの全体、人生そのものに良心概念を向けている。

 

 *デカルト…「良心の呵責は…一種の悲しみである」(「情念論」)

  ・「最善と判断したことを実際に行ったのならば、たとえ後になって…失敗だったと判断するようになっても、やはり後悔することはない…良心に反してあることを成したなら、うまくいったと認めても後になって後悔すべきでありましょう」「欠けるところのない決意と徳をもって、自己の最善とするところをすべて実行したのだと、良心が証明してくれさえすれば十分なのです」(エリザベート王女への書簡)

  ・「自分が最善と判断したすべてを怠らず実行し、何らかの良心の咎めることなく生きてきた人は、一種の満足感を得る。それは彼を幸福にする力が非常に強く、いかに激しい情念の力も決して心の平安を乱すほどの力を持ちえない」(「情念論」)

  ・デカルトの座右の銘「万人によって知られ、ただ自己自身によっては知られざる者は、死に臨んで死を恐れる」(セネカ ローマ時代の政治家哲学者)~他律的良心✕ 自律的良心〇 に通ずる

  ・「我思う、ゆえに我あり」…どこまでも我を見つめる。

 

 *ハイデガー…「現存在(人間存在)は良心の内で自分自身を呼ぶ」「現存在は呼びかけるものであり、かつ呼びかけられるもものである。」(『存在と時間』)~呼び声としての良心。

 

 *ヤスパース…「良心において、私自身であるところの声が、私に語りかける。」「私を呼ぶのは誰でもない。私自身が私に語りかける。」~呼び声としての良心。

 

*カント…「人間の内なる法廷の意識は良心である。そこにおいて自分の思いが互いに訴え、互いに弁明し合う」(『道徳の形而上学』)「法廷には二通りある。人間的法廷としての外面の法廷と、良心の法廷としての内面の法廷とである。」…外面の法廷(裁判所)~良心に誓って嘘偽りは述べず真実のみを述べます…外面の法廷を内面の法廷にゆだねている。~外面の法廷ができる以前に内面の法廷があった。

良心はいつ生じるのか

 

*生得的

 ・「孟子…性善説(生得的)」 対 「荀子…性悪説(後天的)」(良心については述べていない)~礼を教える
                            ↑
                    経験によってつくられる≒フロイト

*後天的

・フロイト…幼少期の発育過程において、父親に代表される社会的権威による教えが無意識の中に蓄積され、「超自我」として働くのが良心。

 

*良心は「母なるもの(母もしくは母に変わるもの)」との交流を通してその核がつくられるのではないか(私論)

 ・出生後から始まる母との交流(抱き、見つめ合い、哺乳、おしめ替え等)における心地よさ(快)とそれらを求める心の作用が良心の源。

 ・その交流の温度の違い(温か~~~冷たさ)…その人の人間性の底にある。(性善説と性悪説の分水嶺)

  温度の違いは、その人にとっては当たり前のこと…内的作業システム(ボウルビィ)~親子関係で作られるその人の認識や言動のあり方(パターン)。

 ・conscienceを考える。

母との交流=共感し合う関係…他者と共に知る要素。①

乳児は母という存在に一体化した感覚の中にいる…自己自身と共に知る要素。③

乳児は母の不在の時に全体性の中にいる。母の出現=自分の出現…母=自分の背後に全体がある

     …自分を包み込む全体性=自分を越えた何か=自然や宇宙や神という要素②

 

*良心は呼び覚まされる(『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳著 筑摩書房より)

 ・親からの身体的な虐待を受けて育ったA子さん。夫にもDVを受ける。その後離婚。我が子(女子)と2人暮らし。カウンセリングを受ける。自分のこと(何かにつけて我が子につらく当たってしまう(叩く、蹴る)。申し訳ないと思っていても(良心の呵責)、やめられない。)や自分が親にされたことを少しずつ話すようになる。

・A子さんにとって、自分以外の親を知らない。自分が生きていくためには、その親に従うしかない。人は誰でも生きていこうとする。そのために必要なことを実行することが「善」である。だから、子どもにとっては、目の前の「悪い親」に耐えることが「善」であり、その逆に、耐えられずに逃げ出すことが「悪」となる。悪に耐えることが「善」で、善を求めるのが「悪」である。こうして「普通の」人とは善悪が逆転する。善悪が逆転した心理システムに生きていると、悪に耐えていると心は安定し、善を求めると不安になる。期待できないものを期待するよりは、確実なものに耐えていた方が不安は小さいからだ。

 ・「(まともに子育てをできていない自分)このままじゃいけない…死んでしまいたい」と思ってボーっとしているところに我が子が保育園から帰ってきて「ママどうしたの?」「ママ、涙出ているよ」

 ・ある日、元気がない我が子に「どうしたの?」と聞くとボロボロ涙を流した。自然と、よしよしをしてあげた。子どもも自分の体に頭を押し付けてきた。「これでいいんだ…」~本当の親子になっていく。

 ・A子さんの良心の核はそんなに大きくはなかったかもしれないがあった(乳児期の母子関係)。しかし虐待される経験で善悪を逆転して身に着けてしまっていて、それに基づく認識と言動になってしまっていた(内的作業システム…ボウルビィ)。

 ・善悪が逆転した心理システムを再び逆転して正常に戻すのは、親子関係が一番である。抑えてきた善、失っていた善を思い出させてくれるのは、子どもの笑顔である。子どもは、「この世界が」善なのか、悪なのか、まだ知らない。だから、彼らはためらうことなく笑顔を返す。親が生きていくためにとっくの昔に閉じてしまっていたものを、子どもはまだ持っている。親は子に救われる。