2021年度5月号

トモエの森に春の紅葉が訪れてきました!

みずみずしい、透きとおるような新緑!

ピンク・白・赤・薄緑・淡い茶・青い空! 

   大自然と人間は、神秘と不思議に満ちています。みんなで、幸せを創造しようよ!

 

生きる意味を、15歳ごろから思考続けて82歳になりました。

生きている限り、考察が続く人生が待っています。生きる意味の答えは無限大

人間の神秘の解明を求める楽しみ・・・幸せを創る生活に繋がっているかも・・・

                             

 生きる意味って何!現在までの思いは・・・

*自分と自分自身・自分と人と心が通う日々の喜びにあるのでは・・・

 *人間のためのあらゆる制度は、生活が生き生きとした心の交流に・・・

 *トモエの生活環境は、個々の家族が生き生きと生きられるために・・・

  トモエの歴史は、50数年の歩みの上に。人間探求は、永遠に続く・・・

 

生きるための生活って何

生活の意味は?活字の意味は?

『生』生きていること

『活』生きること・威勢良く動くことと、辞書は言う

『活』とは、活動・活躍・活発・活気・活力・活用・活字・活魚・活路(命が助かる道)など生きている状態を表現。「活魚」生きている魚・イカサシ・イセエビおいしいですよね?

「活語」生きている語・命ある語。大人は、生きている言葉を心して表現をしたいですよね

生き生きして躍動感ある生活の表現は、子どもたちに大きな影響を与えている大人!

ところで、大人って何!大人の責任ある言動とは・・・?考えすぎですか?

 

「生きている言葉」とは・・・

聖書には、「はじめに言葉があった。言葉は、神であった」とあります

神の言葉で、太陽系・宇宙ができた。人も。創世記に記されています

昔の人は、神の言葉が生きていて、その言葉が実際のものとなった。と考えたのでしょうか

人は、人の言葉で癒され、同じ言葉で傷を受ける。言葉に命がある。気をつけなければ!

大人の生活が生きていなければ『幼い命は、生き生きと生きられない』のですよね

 

「活人」なる言葉もあります。命ある人・生きている人・人を生かす人の意味があります

「活現」の意味は、事実を生き生きと目に見えるようにあらわす・あこがれるな~活現!

「活人・活現」を表現できる人間になりたいと願いながら、これからの人生を「活気ある日々」に、創造し続けた~~~い!と、思いを強くしている園長です。

「生活の核となる」のは、信頼から生まれた二人の生活。「社会構成の核」

その生活から、命が生まれる。その命もやがて「信頼から生まれた生活の家」を創る

新しい命は、生活から信頼・配慮・敬意・尊重と尊厳・自己肯定観を身に付ける

『生活』は、言葉通り本来生き生きとした家族・家なのだ

幾千年と繰り返されてきた、信頼から生まれた命ある生活の家が誕生してきた

人は、生涯自分自身と向き合い続ける生活を、どう生き生きと生きるのか問われます

大人の生活が問われています

 

昨夜、5月6日NHK「クローズアップ現代・親を捨ててもいいですか」の放送を見ました

命ある生活の家。命が生まれる生活が崩壊し続けています

家族の意味が問われているような文明社会

環境汚染は、人間の心の汚染からきていると私は、思い続けてきました

自分自身の心のほんとうの姿は、どこにあるの!どんな姿なの!

真剣に真実を求め続けなければ、崩壊は続く・・・

大人たちが使う言葉の意味の喪失?

生活する意味の喪失?

信頼の意味の喪失?

自分自身と向き合って生きる意味の喪失?

命ある生活の意味の喪失?

人間が生活する意味の軽視?喪失!

どうにかしなければ・・・

園長は、『活現』を求め続ける人生・生活をしたい

 

生きている生活の喪失の根源は、すべて大人にある、とアリス・ミラーは、言う

アリス・ミラー(1923~2010)ポーランド生まれ、の本からの紹介

教育(大人)にひそむ暴力性を、1979~81年の著書に

「才能ある子のドラマ」

「魂の殺人」

「禁じられた知」がある。

「禁じられた知」から「著者から日本の読者へ」の言葉がある。

大人として心しておきたい内容ですので、記載してみます

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著者から日本の読者へ

 

何千年の昔からおよそ文明国と言われるような国では例外なく、子どもをせっかんするのは当然と考えられていました。大きくなってからりっぱな思いやりも責任感もある人間になれるように。しかし今世紀に入って科学的な研究が進んだ結果、このような考え方が誤りであることはもはや記念の余地はありません。

フロイトは1896年、神経症・精神病・心身症障害は抑圧された精神的外傷の表れであることに気づきました。もしフロイトがこの発見に忠実であり続けていたとしたら、社会を幾千年の眠りから目ざめさせ揺さぶって、子どもの置かれている状況にもっと心を向けさせ、より人間らしい方向にもっていくこともできたはずです。しかし、そうはなりませんでした。フロイト自身、ほど経たぬうちに患者の語ることを信じまいと決めてしまったのです。それ以来、患者の子ども時代、性的に弄ばれた記憶も、単なる幻想ということになりました。この理論は大人の責任を子どもにかぶせています。性的願望を持っているのは子ども。汚れなき両親はその願望から身を護らねばならぬ立場だというのです。大人が自分の内にあると認めたくないものはすべて子どもに押しつけ、子どものせいにする。これはごく当たり前のやり方でした。当時禁じられたテーマであった性の科を子どもに負わせるフロイトの新しい理論が大いに迎えられたのも不思議はありません。