新緑が輝く季節となりました。トモエの森の木々たちが、日に日に緑色を濃くしています。それは、街路樹のようにきれいに型取られることなく、庭園のように整然と剪定(せんてい)されることなく、ただただその存在を主張しているようです。あるがままの姿を圧倒的に伝えているトモエの木々たち。この時期になると、そんな木々たちの姿がトモエの子どもたちと重なって見えてきます。
6月に入り、子どもたちにとってのいわゆる怒涛の(苦笑)4,5月が過ぎました。新学期になって、新しい人間関係を築くことが多い春先の頃は、少しナイーブな、気持ちが泡立つ時期かと思います。例えば、ひとつ上の学年の子とひんぱんに遊んでいた子は、相方の子が卒園してしまったので、新学期には新しい人間関係を構築することになります。これはなかなか厳しい課題となることもあるようです。
ある女の子は、4月になると人間関係の再構築が心配になるので、トモエに行くと、「お母さん、そこで私を見てて!」と言うそうです。お母さんが心の基地なんですね。お母さんが居ると居ないじゃ雲泥の差。お母さんからのエネルギーを感じることで、自分はがんばって動くことができる。その主張たるや、ありのままを直球で表現していて清々しい限りです。でも中には、見てるだけでなく手伝って!という子もいると思います。そんな時はその通りに、ちょっといっしょに動いてあげたらいいと思います。大事なのは、「お母さんがそこに居ること」だから。
トモエは、友だちを自分で選ぶ・見つけることができる環境です。なので、隣りの子と仲良くしましょう、というメッセージ性はおそらく存在しないでしょう。そして、年齢や発達段階・個性によって、その「見つけ方」には幅があります。例えば、年齢の低い子はお母さんといっしょに、お母さんが気の合う友だちから親しくなっていくことが多いようです。他にも、外遊びが好きだとか、ものづくりに没頭していることなど、趣味や嗜好つながりでできる友だち関係も見受けられます。年齢が上がってギャングエイジに近づいてくると、仲間意識を強め、人間関係の変遷そのもの(仲間に入る、抜ける)を楽しもうとしている様子も。どの見つけ方も自然で、自分を大切にできていることの表れかなと思います。
「友だち=群れる」ことのすばらしさとは別に、「ひとり」も、忘れてならない大切な括りです。外側から当てがわれた人間関係が存在しないということは、裏返せば「ひとりでいること」もあり得るということです。なのでトモエはある意味、厳しい世界であるとも言えるでしょう。しかし、「ひとり」を全く自然な状態として肯定的に引き受けることもまた、自分で見つける選択肢のうちのひとつです。
トモエは親子で通える幼稚園です。「ひとり」の周りには、お母さん(お父さん)がいてくれて、前述の女の子のように日々、力をもらっています。そしてそのバックグラウンドには、いつもたくさんの大人たちもいます。たくさんの人の存在があってこそ、「ひとり=自分であること)」を感じることができるのだと思います。
こんなふうにトモエが、幼少期に「ひとりの意味=自分と向き合うこと」を体感できる環境であることに、あらためて敬意を払いたいと思います。なぜならそれが、やがて必ず遭遇する人間関係の波(=人生そのもの)をどう乗りこなすのか、そのベースともなるべき事柄だと思うからです。自分の道を歩いて行けるということ。幼少期にたくさんの人の中で、親子がいっしょに過ごすことが、ここにつながっているように思えます。
ひとり(自分)の意味を知る人々の群れにこそ、「みんな違ってみんないい」という言葉がふさわしいのだと思えます。「みんな違う」の意味は、「いろいろな意見の寄せ集めの総称」ではなく、隣の誰かの「いろいろ」を想像できることだと思います。ひとり(自分)を知ることは、自分はもちろん、他者のことも大切にできることにつながっているのでしょう。
今年は暑い日も多く、夏もすぐそこですね。うっそうとするくらいに緑を増す木々たちと、これでもかと鳴き続けるセミの声が持つ生命力に、トモエの子どもたちを重ねています。夏に向かってそれぞれが躍進していることを想像しつつ、初夏の風物詩を眺めている今日この頃です。